辺りが急に暗くなったと思ったら、もう降り出した。
要と幹彦の二人は、古びた門の下へと駆け込む。
「すごい雨ですねえ」
要はどこか感心したような口調で言った。実際、激しすぎるほどの雨だ。降り出してからまだ一分も経っていないというのに、二人はずぶ濡れになった。夕立ならこの季節によくあることだが、今はまだ昼。不意打ちもいいところだ。
「しばらく止みそうにないなぁ……。困りましたね、先生」
「おや。何故ですか?」
「何故って……」
「目的地になら、もう着いていますよ」
「え?」
要は目をまるくして、それから門にかけられた表札を見る。
もう随分と風雨に晒されているのか、角が取れ、色合いを濃くしたそれには、間違いなく「月村」の名が刻まれていた。
+++++
始まりは、放課後の教授室での他愛もない会話からだ。
「月村先生って、寮監をなさる以前は何処で暮らしていたんですか?」
生物学の教師となる以前の幹彦は独逸へ行っていたこと、その以前は帝国大学の医学部に在籍していたことは知っている。
そして幹彦とまたその頃の話をしていたとき、ふと、要は気になったのだ。帝大生の頃はもしや下宿生活なんかをしていたのだろうかと。それを訊くと、幹彦は「はい」と答えた。
「大学や大学病院へは、母方の知人がやっている下宿から通っていましたよ」
「では、御実家はどうなっていたんですか? ……その頃は、既にご両親とも亡くなられていたのでしょう?」
「そうですね。父が死ぬまでは、使用人なども住んでいました。今は誰もいませんよ。手入れをするための者が月に何度か出入りしている程度です」
「……ということは、昔からの家財なんかは、そのまま?」
「えぇ」
「へえ……」
要はついついため息をついた。
以前はこちらも遠慮していたからということもあるが、近頃の幹彦は、要が訊けば彼自身の過去の様々なことを話してくれる。「あまり憶えていませんね」と言われることもあるが、両親のことや、学生時代のことを話してくれる。
けれどそうやって話を聞いていくうちに、要はますます貪欲になる。幹彦の「過去」をもっともっと知りたくなる。
だから今も、ある言葉が喉のすぐそこにまでこみ上げてくる。
そんな要の胸中を表情から読み取ったのだろう、幹彦は机の上の書類から目をあげて小さく笑った。
「今度の週末は、私の家へ行きますか?」
++++++
訪ねて行ったその日は丁度、無人の家の手入れを任された老女が来ている日だった。
門から玄関先へ駆け込むと、背筋がまだ真っ直ぐに伸びた老女はひどく驚いた様子で家の奥から出てきた。すぐに手ぬぐいを持ってきて、「内湯の準備をしますから」と言った。
ならばひとまず……と要が通されたのは、客間と思しき部屋。
もともとは和室であった部屋で、畳の上に絨毯を敷き、飴色の机と革張りの洋椅子を並べている。床の間には美しい水色のカットガラスの花瓶。だけど、そこを飾るべき花はない。
湯の準備が整うには、少し時間がかかる。だから先に衣服だけ着替えた。
要がいま着ているのは、淡い色合いの浴衣。
これならば丈が合うでしょうと老女に渡されたものなのだが、聞けば、幹彦が昔使っていたものだという。
洋椅子に座った要はそのことを思い出し、嬉しいようなくすぐったいような、切ないような心地を覚えた。
ここには、自分と出会う前の幹彦が間違いなく「いる」。
「入りますよ、要君」
低く静かな声のあと、襖が開く。四角い銀色のトレイを持った幹彦が入ってきた。
トレイに載っているのは、珈琲。
どうぞ、といつものように差し出されて、要はつい笑顔になった。
芳しい湯気のたつ珈琲をひとくち飲むと、なんだかとても気持ちが寛いだ。
向かいの椅子に座った幹彦は、濃紺の浴衣を着ている。
最近は洋装ではない彼を見ることも多くなったが、生乾きの前髪が額にぱらぱらとかかったさまや、やけに白い首筋と濃紺の衿の対比がなんとも艶っぽい。
幹彦は珈琲碗を机に置き、ほんの少しだけ目を細める。
「それを飲み終わったら、湯屋へ行きましょうか。そろそろ丁度よい頃でしょうから」
「あ、はい」
要は素直に頷いた。が、頷いたあとで「あれ?」と思う。
「あの……、先生。もしかして、ふたりで一緒に入るんですか?」
「そうですが?」
いけませんか、と至極当たり前のように訊き返された。要は却って顔を赤くし、口を噤んだ。すると幹彦が小さく笑う。
「何でしたら、体を洗ってあげましょうか?」
「いっ、いえ、自分で洗います!」
「そうですか?」
「そうです!」
小さな子供じゃないんですから、と要がつい力説すると、幹彦はますます楽しげに笑った。
もう、と軽く唇を尖らせながら、先に部屋から出る。
するとその一瞬だけ、視界の端に人影を捉えた。
もしや、先程の老女が何かの言伝てのために来たのだろうか。そう思ってすぐに振り返ったが、廊下には誰もいなかった。
要は軽く首を傾げつつ、気のせいかな、と息をついた。
月村邸の湯屋は、少々意外な造りだった。
いや、ある意味ではとても「この家らしい」。
男が二人で入ってもまだ余裕があるほどの浴槽は、総檜造り。湯屋の戸を開けた瞬間にその心地よい木の香りが鼻腔をくすぐった。大きな格子窓は南を向いている。だけど外は既に夕闇。
湯屋の中を照らしているのは、ガラスのシェードをかぶった小さな洋燈だ。
熱すぎず、ぬるすぎずの湯加減が、雨で冷えた体には気持ちいい。
けれども、今は。
「は…ぁ……」
軽く顎を仰け反らせた要は、眼差しを宙に彷徨わせる。
男にしては色が白く、きめ細やかな肌の上を、節の強い指がすうっとすべっていく。その度にシャボンの爽やかな香りが漂う。
自分で洗いますと、確かにそう言ったのだ。
なのに、気がつけば要は幹彦に後ろから抱きすくめられ、彼の手に身を委ねていた。
どうやら舶来物であるらしいシャボンは、ほのかに花の香りがする。もしや薔薇だろうか。そう思って訊ねたら、「君の肌のほうが薔薇のようですよ」と言われ、要はいっそう頬を火照らせた。
無防備になるしかない背中と、濡れて露わになるままの耳元。その両方で、幹彦の体温を感じる。湯を浴びた肌はしっとりと濡れていて、なんだかいつもより淫らだ。
爽やかでいて華やかな香りを放つ泡を絡めた指先が、首筋を胸を腹を丁寧になぞっていく。ふとした拍子に軽く爪を立てられると、ぞくりとする。小さな眩暈がして、頭の芯が一瞬だけかすむ。でもすぐに指が動くから、また醒める。そしてまた一瞬の揺らめき。この小さな積み重ねが、理性をかき乱す。
「せ…ん、せい」
浴槽からたちのぼる湯気よりもずっと熱い吐息で唇を濡らしながら、要は身をよじった。顎はさらに仰け反り、幹彦の裸の肩へ色素の薄い髪がぱらぱらと掛かる。
「んっ、ふ……、先生」
「はい?」
素知らぬ調子で幹彦は要の顔を覗き込む。と、口接けを交わす。いや、舌を交わす。口の端からしたたるものに構わない、淫蕩な戯れあい。互いに目を閉じて、柔らかなその感触を楽しみあう。だが二人にそれだけで足りるはずもなく、やがては深く口接けあう。離れるときには、要の顎にひたりと蜘蛛の糸が落ちた。幹彦は婉然と微笑み、その形の唇で糸を拭う。要もまたうっとりとした心地で睫毛を震わせたが、意識は次第に下腹へと向かっていた。
だが、幹彦は決してそこには触れてくれない。
脚を内側から割らせたくせに、一番の反応を示している場所には無関心だ。
そんな意地悪をするのが彼だと、要はよく知っている。
知っているけれど、切ないほどのもどかしさと甘ったるい疼きは募る一方だ。
───
シャボンの指で弄ばれたら、どんな心地だろう。
そんな想像は、一度はじめてしまうと止まらなくなった。
その指を待っている。
目隠しをして触れられても、絶対にわかる。
すんなりと長くて、節が強くて、肌をよく奏でてくれる、その指先。
右手は優しくて、左手は意地悪で。
早く、早く触れてほしい。
だけど言えない。
湯屋でこうしているだけでももう随分と恥ずかしく、頭の芯が痺れるような悦びがあるのに、これ以上を求めるなど、気がどうかしているとしか思えない。
………いや、違う。そうではない。
いま、ここで、これ以上のことを自ら求めては、理性のタガが外れる。
そんな予感があるから、要は言い出せない。
唇を噛んで、喘ぎ漏れる声をこらえる。
それなのに。
「大丈夫ですか?」
「…え……、なに、が、です?」
「ここが、ですよ」
そう言って幹彦が軽く指さしたのは、軽く開いた脚の間ですっかり育ったもの。
先端からは、シャボンの泡などとはまるで様子の違うものがとろりと滴っている。
わかっているのにそれを自分で見てしまった要は、かあっと全身が熱くなった。そうしてまたとろりと滴る。恥ずかしさや不甲斐なさがこみあげてきて、要は唇が震えた。
だけど頭の芯をいっそう痺れさせたのは、自らの痴態を幹彦に晒しているという現実への酔いだ。
どうか、触れて。
どうか、その指で導いて。
そんな言葉が吐き出したくなる衝動を感じて、要は自らの指を噛んだ。痛みとともに衝動はただの吐息として散っていく。
すると、その右手を幹彦に取られた。
何をするのだろうと思う間に、手はシャボンの泡まみれ。
「先生……?」
「自分で洗うのでしょう?」
「え?」
「さあ、どうぞ?」
耳のすぐ後ろで、くす、と幹彦が笑う。
吐息めいたその微笑は熱く湿っていて、無防備な耳朶を溶かすかのよう。要はきつく目を閉じてその官能を受けとめる。唇が勝手にわななく。でも、右手は動かない。
「もう少し、脚を開いて。……そうやって、お好きなところから洗いなさい」
幹彦の手は要の両肩に添えられている。そして、要がどうするのかを背後からジッと観察している。
「……も……ぅ」
浅い呼吸を何度か繰り返し、要は目を閉じたまま首を仰け反らせる。背筋を幹彦の胸へ押しつけた。すると首筋に手がかかり、もう一方の手が輪郭をなぞりあげる。瞼の向こうでまたクスクスと笑う気配を感じた。
じれったい。もどかしい。足りない。
でも彼は決して与えてくれない。
「先生は、いじわるです……」
「おや。……そんなこと、君はとうに知っているでしょう?」
「……意地悪です」
要は深く息を吐き出す。
そして、自らの欲望に自ら触れた。
親指はただぬるりとすべる。
幹彦に促された右手で先を、ただ濡れただけの左手で根本を。
洗っているはずなのに、指先はどんどん汚れていく。
「はっ…、あ、ぁ、ぅん、あぁっ、せんせ…い、……んんッ」
真っ赤に染まった耳朶をそっと噛まれた。
どうせなら、もっと強く噛んでほしかった。要は頭の片隅でそう呟く。でもわかっている。わざと緩く噛んだのだ。そんなことで達かせないために。
不意に、明かりが揺れる。ガラスのシェードを被った洋燈の火が、急に消えた。蝋燭が尽きたのだろう。湯屋は急に薄闇に染まる。夕暮れの闇───ほの暗く、人肌に等しい温度を孕んだその色に。
それでも、要は背後から、いや、肩口から視線を感じる。自らをなぶる指先にそれを感じる。幹彦は笑っている。密着した肌は熱い。
その体温が自分のものではないことが、いっそ信じ難い。
そんなさまざまなことを感じて感じて、感じすぎて───、要は指の動きが早くなる。
情欲の底で焦がれ、熟(う)んでいくものは、開放の瞬間を待っている。
あと少し。
あと僅か。
そうして、耳元で小さくねっとりと笑う、その吐息。
「も……ぉ、狂う…っ」
「いいですよ。存分に狂いなさい」
「せ…ん、せ、……あああぁっ」
背後から胸元へ這う手が、急に鴇色の蕾を摘みあげた。
「しっかりと…見ていてあげますよ。ほら、……要」
「んー…っ、あ、あァ………!」
きつく閉じた目尻から涙がこぼれ落ちる。
歓喜の声が、湯屋の天井に鈍く響いた。
ときどき……、いや、いつも不思議に思う。
どうして彼はこんなことが出来るのだろう。
彼は、自分と出会うまで愛も欲も知らなかったと言っているのに。
+++++
湯屋を出て、体の火照りもやっと落ち着いた頃、夕食をとった。支度は、老女がすべてしてくれた。
二人が訪れたのは本当に急なことだったから、手の込んだ献立ではない。だけど美味しかった。黙々と給仕をして、二人が食べ終わるまで部屋の隅に控えていたのだが、要が「ごちそうさまでした」というと、寡黙な老女はとても嬉しそうに笑った。しかし、片づけを手伝うという申し出は固く断られた。
そうして帰り際、「こちらにお泊まりになるのであれば、明日の朝も参りましょうか」と老女は幹彦に言った。つまり、朝食を作るために足を運びましょうかと訊いていた。老女が暮らす家は、ここからそれほど遠くはないのだという。
けれど、幹彦は静かに否と答えた。
そうして好意を断る代わりに、屋敷の隅々にまで手入れをして守ってくれていることに感謝すると告げた。老女は驚いたように目を見開いて、深々と頭を下げた。
「……いい方でしたね」
門の開閉する音が聞こえた後、縁側で要が呟いた。隣を歩く幹彦はほんの少しだけ目を細める。
「あれは、私の母の世話を長くしていた者です」
「お母様の……お世話をされていた方ですか」
「えぇ。母がこの家へ嫁いでくるとき、一緒に来たのですよ」
「じゃあ、先生が小さい頃のことなんかもよく知っているんですね」
「まあ、そうです」
「へえ……」
だったら、もっと話をしたかったな。要は胸中でそう呟く。
思い返せば、彼女が幹彦を見るときの目はとても穏やかだった。
幹彦は誤解を招きやすい───良い誤解も悪い誤解も大いに招く特異な人柄なので、彼をあのような目で見る人は、本当に珍しい。そんな人を知ることが出来て要は嬉しかったが、同時に、自分と出会う前の幹彦を知っていることへ、少し妬いてしまう。詮なきことだと百も承知だが、手に入れることの出来ない「幹彦」が存在することがどうしてももどかしい。
自分は幹彦のものだが、幹彦とて、自分のもの。
無論、それぞれに別の時間を過ごしてきた日々があるから、なにもかも───過去までも独占してしまうことは出来ない。
そんなことは百も承知だが、それでも、幹彦のことに関してどうも我慢が効かない。
いつもいつも……飽きることもなく肌を重ね合い、濃密な時間と悦楽を分かち合っているせいだろうか?
先程の湯屋では結局、二度達した。
一度ではとても足りなくて、二度目は自ら望んでした。
でも、それだけ。
幹彦は見ているだけだった。
───いや、長湯をしたわけでもないのにすっかりのぼせてしまった体を優しく拭き、浴衣を着せてくれたのは、彼だ。
体の奥に灯った火はまだ消えずにくすぶっている。
バラバラに崩れた理性がまた繋ぎあわされ、それが灯火を覆い隠してはいるけれど。
けれど。
……優しいけれど、本当に意地悪だ。
要は口の中で呟く。
そんなときだ。
「要君、どうかしましたか」
「え? ……い、いえ、別に」
「そうですか? では、こちらへ」
「?」
縁側から廊下へと入っていき、そうして案内された先は、この広い屋敷のずっと奥にある部屋。
幹彦が先に入り、行灯に火を入れる。
橙色の明かりにぼんやりと照らし出されたそこは、二間続き。女性が使っていた部屋なのだとひと目でわかった。布がかけられた立派な鏡台があるからだ。アールデコ調の装飾が施されたそれの隣には、黒地に螺鈿の大きな手鏡と朱塗りの台。部屋の隅には、着物をかける衣桁がふたつ。木目の美しい箪笥の上にはガラス細工の花がふたつみっつとあり、その端に写真立てがあった。
目敏くそれを見つけた要は、ゆっくりと歩み寄る。
「これ……先生と、先生のお母様ですか?」
「えぇ」
隣へと来た幹彦が頷く。
薄茶色に褪せた写真には、椅子に座った和装の女性と、白いシャツの洋装姿の少年。色白で、すうっと通った目鼻だちが本当によく似ている。
……この、六つか七つの頃の幹彦は、いったい、どのようにして日々を過ごしていたのだろう?
いったい、何を見つめて生きていたのだろう?
そんなことを考えはじめてしまった要は、ますます写真から目が離せない。やがては、幹彦の母親のことまで考えはじめてしまう。
幹彦の母は華族の出で、医者であった幹彦の父に見初められて、半ば強引に結婚したのだという。そして、夫婦仲がまるでうまくいっていなかったことも聞いた。
幹彦の語るところをいろいろ考えてみるに、幹彦の母親は、幹彦へもあまり心を開いていなかったように、要は思う。
それでも、この部屋にはこうして幹彦の、いや、幹彦と一緒に写った写真が飾られている。
あの世話役の老女がいつも欠かさずに磨いているのか、写真立ては埃ひとつ被っていない。
だけど整然と片づきすぎたさまはやはり、この部屋を使っている者がもういないのだということを克明に伝えていた。
「……あれ? 何をなさっているんですか、先生」
いつの間にか幹彦は要の隣を離れ、箪笥の前にいた。一番下の引き出しが開いていて、幹彦はそこから白い包みを取り出した。
「母が使っていた着物を出しているのですよ。……要君、こちらへ来て」
「あ、はい」
誘われて、要は素直に従う。
行灯の明かりも近い箪笥の前に膝をつくと、幹彦は包みの中から取り出した着物を要にあててみせた。
一瞬、要は息を呑んだ。
明かりに照らされた着物は、血のように艶やかな真紅。左の片側にだけ入った、金糸銀糸色とりどりの花紋様。ひときわ鮮やかに咲いているのは、大輪の薔薇だ。
「母の、娘時代の着物です。とても気に入っているが、今は着られなくて本当に残念だと話していました」
「へえ……」
「……あぁ、そうか」
「え?」
幹彦の珍しい独り言に、要は軽く顔をあげる。幹彦と目が合う。彼は眼差しだけで少し笑った。
「思い出しました。あれは、この着物を広げて話をしていたときのことです」
「『あれは』……?」
「西洋では薔薇の下に死体が埋まっているのだと、その話を母へしたことです」
「───」
要は口を噤む。
既に聞いているから、知っている。
幼い幹彦が母親へその話をした次の日に、母親は自殺したのだ。この邸の庭にある薔薇の繁みの上で、首を吊った。
前日にした話が念頭にあったのか、それともそこにたまたま丁度良い枝振りの木があったからなのか分からないが……と、以前、幹彦は淡々と語ってくれた。
要は声もなく、腕に載せられた着物をジッと見つめる。
そしてふと、パタパタ……と足音らしきものを耳にした。部屋の外からだ。
いったい誰だろう、もしや猫だろうか?
そんなことを考えると、幹彦が意外なことを訊いてきた。
「着てみますか?」
「えっ?」
着る、といってもこれは女物で、それも、少女たる者が袖を通すものでは……。要は少しだけ躊躇したが、瞬いて幹彦を見つめ返すと、そんな考えは跡形なく失せた。
「着ても構わないというのなら、是非に」
「では」
幹彦は穏やかに目を伏せ、箪笥の別の引き出しを開けた。
その間に要は帯を解き、浴衣の衿に手をかける。それを肩から脱ぎ落としてしまおうとしたが、途中で止め、じっと目を細める。
「ねえ、先生」
「はい?」
「このお邸、今はもう誰も住んでいらっしゃらないのですよね?」
「そうですよ」
「………」
では、先程の音はやはり猫だろうか。
広すぎる邸に誰も住んでいないから、却って物音が響くのだろうか?
そう考えてみて、ふと、要は思った。
「先生は……昔、この邸で暮らしていて、寂しくありませんでしたか」
「いいえ、別に」
「……本当に?」
「私は嘘をつかないと、いつも言っているはずですが」
白地に白の小紋が入った襦袢を手にとった幹彦が、くすくすと小さく笑う。
……どうしてそこで笑うのだろう?
要は少しばかり唇を尖らせたが、チラと寄越された目線に促され、浴衣を脱ぎ落とす。幹彦が背後に立ち、襦袢を着せてくれた。正絹の柔らかな感触が肌の上をすべっていくのが気持ちいい。左右の衿を合わせると、幹彦が腰紐でそれを留める。背後から手がまわるので、要は軽く抱きすくめられたような格好になる。
幹彦は互いの体が触れあうか否かというほどの距離を保っていたが、耳元にふと吐息がかかり、要はつい肩を揺らした。するとまた吐息がかかる。また、幹彦はくすくすと小さく笑った。
「要君は昔、寂しかったのですか?」
「え?」
「離れでのお母上との暮らし……ささやかな幸せと、本宅での不遇の数々。それらのことを私へ話すとき、君はいつも力ない苦笑を浮かべていた。でも、本当は辛く、物苦しさがつきまとっていた思い出だった。話せばと少しは楽になれるから、話す。けれど深淵にひそむ本当の自分に気持ちに気づくことは辛さを蒸し返すことだから、苦く笑って、それを封じていた。そうすることが正しいのだと、自らへ言い聞かせながら……いつも、いつも。───違いますか、要君」
「………いいえ、違いません」
要は小さく首を振り、瞼をじっと伏せる。そして深く息をついた。
本当に、幹彦はなんでもわかっている。
彼は要のことを「私の五感」だと言う。
だが要にしてみれば、幹彦こそが自分の五感───もうひとりの自分、或いは半身ではないのかと、想う。
「………あっ」
うなじから背筋にかけて急に冷たい指が走り、要は目を開いた。幹彦が襦袢の衿を抜いたのだ。
「では要君、次はこれを羽織って」
「………、はい」
つい甘ったるい声をあげてしまった自分を恥じながら、要は形見の着物に袖を通した。その間に幹彦は前へとまわり、膝をつく。
左右の端を取り、裾丈をあわせると、腰紐をまわす。薄紅色の紐がシュルリ、シュ、と涼しげに歌い、固く結ばれる。
御端折りが整えられると、腰紐がまたもう一本。
真紅の野に咲き誇る花々の衣を飾る帯は、黒地に金糸銀糸の刺繍で描かれた吉祥紋。
絞り染めの帯揚げに、赤紫色の帯締め。
鏡台の引き出しから取り出した柘植の櫛で、幹彦は要の髪を丁寧に梳いた。
櫛の歯と、指先。ひと梳きされるたびに、ぞくぞくと背筋が震える。
「ほら。出来ましたよ」
「……………」
鏡台の前に立たされた要は、半ば信じ難い思いで正面を見つめた。
少女の為に作られた紅い着物を纏った自分が、鏡の中にいる。
以前、子爵家の長男の趣向によって赤いドレスを着せられたときは、この上もなく不愉快だった。けれど今はまるで逆だ。言い表しようのない興奮が胸の奥からふつふつと生まれ、全身へじわりと広がっていく。いっそ誇らしささえ覚えた。
「この着物の紅は、君の肌の白さをいっそう引き立てますね。……髪は、あげますか?」
背後に立った幹彦はそう言って、要の髪をうなじから軽く透きあげる。生え際から背筋へじわりと伝わる刺激に、あっ、と要は小さく息をもらした。
「いえ、髪は別に……。それより───月村先生、どうして女物の着付けが出来るんです?」
「見様見真似ですよ。昔、学祭や寮祭などの出し物のためにと学友諸君や教授方の着付けをやらされたことがありましたから」
「ふぅん……」
「帯はきつくありませんか、要君」
「平気です」
「……………」
「? 先生?」
ふと前へ目をやれば、鏡に映る要の姿を幹彦が肩ごしにジッと見ていた。そうかと思えば、幹彦は鏡台の小さな引き出しに手を伸ばした。
取り出されたものは、貝紅だ。
「何か足りないと思っていたら、これがまだでしたね。要君、こちらを向いて」
「……………、はい」
何も、そこまで徹底しなくても───。そんな気持ちは、不思議と起こらない。
この紅い着物を着付けられ、髪を梳かれていくうち、要は心の何かがくるりと裏返った。
それは、『花喰ヒ鳥』を探していた折りに幾度か開かれたあの「宴」のときに少し似た感覚。
要は目を閉じる。
ひんやりとした指先が顎をとらえ、軽く仰向かされた。
「唇を開いて。……そう、そのまま」
紅をすくった幹彦の小指が、下唇をゆっくりとなぞる。
要の眉間が切なげに寄る。
───なんだろう、これは。
口接けなど幾度も交わしていて、指で唇や舌をなぶられたことも数えきれない。だけど、そうしたときとはまるで違うざわめきが体の芯へと伝わる。逃げ出したいような、嬉しいような、泣きたいような、そんな───悦びの棘。
意識がうっとりと霞む。
それを不意に破ったのは、常の低さのままの幹彦の声。
「もう少し、開いて」
「………」
要は喉の奥で呼吸がひくりと引きつる。夕暮れ前、湯屋で聞いた彼の言葉が耳の奥で重なり、響いた。
あのときは脚を、今は口を。
「……そう」
小指ではなく、今度は中指で紅をすくい、吐息であたたかく濡れた上唇にそっと色をのせていく。とてもゆっくりとした、焦らすかのような動き。
端から端へたどりつくと、また小指で色を重ねていく。
体の芯へ、悦びの棘が集まってくる。
だけど要は自分の知り得ない───未だ踏み込みきれない幹彦の過去へ嫉妬する棘が、消えない。
混ざり合うことのないそのふたつの感覚が、衝動を招く。
「……っ」
幹彦が軽く目を見張り、じりっと眉根を寄せた。
目を閉じた要は、彼の小指をきつく噛んでいた。
「……紅は嫌でしたか?」
指を放すと、幹彦が静かに訊ねてきた。要は黙って首を左右に振る。そしてゆっくりと瞬くと、とろりと潤んだ眼差しを隠しもせずに微笑んだ。
「これでは、先生にも紅がついてしまいますよ?」
「おや。つけてくださるのですか」
くす……と小さく笑う気配。
思えば、最近の幹彦はよく笑うようになった。
そして要も、今まで知らなかった笑い方を身につけた。
その笑い顔を自分で見ることは当然ないのだが、幹彦が言うには、それは「誘う微笑」なのだという。
だったら、今の自分の顔もそれだろうか。
そんなことを頭の片隅で考えながら、要は爪先立つ。背が高い幹彦の肩に腕を掛け、彼の眼鏡を奪い取り、そして彼の首筋へ唇を押しつけた。
ぬるり……と、いつもとは微妙に違う感触と味。
そうして、頸動脈の通う真上には真っ赤なしるし。
それを自らの目で確かめると、要は別なところへも口接けていく。喉元、耳朶、鎖骨のくぼみ。きつく吸っても噛んでもいないのに残る、紅。なんだか要はとても可笑しくなって、喉の奥を軽く震わせた。
「すごく、妙な気分です」
女物の着物を着て───形見の品を着て、幹彦を誘う。なんて退廃的な遊びだろう。
だけど要はとうに知っている。
背徳感をそそる遊楽ほど、刺激的だ。
もう、何度目だろう。
いったいいつまで───。
要は天井を見ている。その視界の端には、自分の膝がふたつ。
閉じることを諦めた唇の端からは唾液がしたたり落ち、それよりもずっと艶かしい声が喉の奥底から漏れた。行灯の明かりに赤く照らされた要の肌はしっとりと汗ばんでいる。
「あっ、あ、……んんっ、や…ああ、ァん!」
びく、と顎が仰け反る。
───あと少し。
瞼裏の向こうに白い光明を見つけたのに、それはあっさりと闇へ消える。
幹彦は、その口に含んでいたものを離してしまう。指さえも。
その切なさに、要は喉を引きつらせた。
いったい、何度こうやって放り出されたことだろう。あと一歩、というところで幹彦はやめてしまう。そして、顔を見る。薄い唇に楽しげな笑みを浮かべながら、時には、濡れた唇を舌で拭いながら、要を見る。
幹彦は別に、自分の表情をわざわざ「見せている」つもりはないのだろう。だけど、要は見てしまう。見てしまって、やり場のない微熱をよりいっそう抱く。
「今にも蕩けそうな目をしていますね」
くすくすと笑いながら、幹彦は肩に乗せていた要の脚を外す。それから、指の背で要の頬をそっと撫でた。
要は薄く唇を開いたまま、荒い呼吸を繰り返す。視線を逸らすことはできない。
「せん……、先生、どうして……」
「『どうして』?」
「………意地悪が、過ぎます…」
二人でもつれあううちに、帯締めと帯揚げは解けてしまった。赤紫色の組紐は鏡台の傍で無造作にとぐろを巻いている。だが帯揚げは、仰向けに倒れた要のつむじの上。───そこで、要の手首を縛っている。
腕の自由を奪われ、脚を抱えあげられ。
衿の合わせは清いまま、裾だけを開かされ。
それでもまだ、要は一度も達かせてもらえない。
「今日の先生は……本当に、意地悪───、んっ」
「どうやら、すっかり機嫌を損ねてしまったようですね」
時にはナイフのような印象さえ漂わせる双眸をじっと細めて、幹彦は要の顔を間近に覗き込む。指先は、すっかり紅のはがれた唇を強くなぞった。
「『どう』しましょうか。……どうすれば、君の機嫌は直りますか?」
「ん……、ふ、ぅ…」
先走りを絡めたままの指先が口を犯す。これでは、答えたくてもまともに話せやしない。今日の幹彦は本当に意地悪だ。要は非難の目を送ろうとするが、目が合えば、ずくりと体が痺れる。指を無視することもできない。菊花をさぐるときと同じ動きで口内をさぐる、その指先。つい夢中で舌を絡めてしまう。
ちゅく、ちゅ、と音がこぼれる。
それが、耳を犯す。
いったい、どれだけ彼のものになってしまえば、与えてくれるのだろう?
どれだけ「意地悪」に耐えつづけたのなら───。
「……っ、う、ン、……あっ、せんせい……」
「おや。どうかしましたか、要君」
ぴたりと体を重ね合わせた幹彦は、低い声を直接耳へ吹き込む。その一瞬、要は意識が途切れた。だがすぐに戻る。幹彦が纏う浴衣の帯がまた、熱の果実をすりあげた。ざらざらとしたその感触に要は悲鳴じみた声を漏らす。
───触れられてもいないまま、狂れてしまう。 ───触れられても、狂れられない。 ……いや違う。
自分は、とっくに狂れてしまっている。
だってそうだ。
これだけの仕打ちを受けたのなら、以前はもうとっくに達していた。
白い光明を捕まえ、飛び込めないのは、彼の意地悪の所為だけではない。
彼に溺れていっそう貪欲になった自分が、光を阻んでいる。 こんなことではいけない。
彼に与えられる快楽は、こんな程度ではない。
もっと、もっと。 宴を予感したときにくるりと入れ替わる、その「もうひとり」が、裏側から囁いてくる。 まだ、堪えて。
許しを請わせ、導くのは、自分だ。
だって──────。 「先生……ぁ、ぁん、あ、あっ、月村先生……っ」
首筋をきつく吸われ、要はうわごとのような声を繰り返す。細いくせに力の強い腕の中で、体をよじる。だが幅広の帯がそれを阻んで、うまく動けない。それでも腰は淫らに揺れる。すると彼も身をよじり、わざと逃げるような素振りを見せる。もどかしていその駆け引きの間も、熟れていく果実は擦りあげられる。
要はきつく目を閉じ、幹彦へ口接けた。
すがるように、むさぼるように舌を絡めあう。
そうして、その苦しい呼吸の下から。
「す……き……」
吐息ばかりで紡ぐ声。
「せんせい、好き……っ」
自分はとっくに狂っている。
焦らされ、放り出され、それでもこうして抱いてくれる意地悪な彼が、好きだ。
狂うほどに、ではなく、好きだから狂った。そして、ますます狂っていく。
果てなし、底なしの狂想。それが、この恋。
「好き……、あ、ぁっ、すき……ッ」
堰を切ったように、その言葉が溢れだす。呼吸をする代わりに要はそう訴えた。
百万遍でもこの言葉を叫べば、それだけでもう事足りる気さえした。
けれど、幹彦がその唇を塞いでしまう。
「ん───んっ、ふ、うン……」
「………おかしなものだ」
ため息のような調子で幹彦が独りごち、そして、小さく笑う。
「とうに知っているでしょう、要君。私が狂った人間であることを。だが───」
言いながら、要の頬へ唇を落とす。
「だが、君をこうして恋えば恋うほど、私は正常(まとも)な人間になっていく気がする」
「せんせ、い」
「……いや、こんな理論さえ既に狂っている証なのかもしれない」
耳朶に唇をぴたりと合わせて、幹彦は自嘲めいた笑みをこぼした。
欲情を隠すこともない熱さを帯びたその吐息は、甘い震えとなって背筋を走る。はぁ……と喘ぎながら、要は開かされた片足を彼の片足に絡めた。
幹彦が、触れるだけの口接けをくれる。
「愛してますよ、要」
触れて、告げて。
その唇が下へさがり、添えた自らの指ごと、果実を含んだ。
「や───ぁっ、あああん!」
薔薇と野の花々が咲き乱れる赤い地に季節外れの雪を散らす先端を親指と舌でくすぐられ、双子の果実をもなぶられる。
下肢に灯った火が、おそるべき速さで全身を焦がす。要は縛られた両手で顔を覆い隠しながらも、声を止められない。強すぎるほどの悦びに、いっそ息苦しい。だけどそれさえ愉しい。
「んっ───」
不意に、根本をきつく掴まれる。熱心な舌が菊花へと及んだ。その花びらをひとつひとつなぞるように舐められ、もはや声もつぶれた。尖った吐息と、彼を待ち望む蜜だけが漏れる。
そうして。
「ああぁ……っ、あー……ッッ」
指で慣らされないまま、貫かれた。
瞼裏で火花が散る錯覚と、一瞬の暗転。そのあとに、ちりちりとした痛み。
だけど、すべての始まりであるあの夜のように何も知らない、わからない体ではない。要は全身から力を抜く。するともう、感じる。しどけなく濡れて、ぬめる熱を。
───繋がり合う前からしたたらせていたのだ、お互いに。
「はぁ……あ、ん、先生……っ」
腕をその首へ絡められない代わりに、要は声を出す。その吐息で彼を抱く。ねだる。ねぶる。
奥までゆっくりと押し込まれると、目尻に唇が降りてくる。温かな舌にぺろりと舐められる。
「気のせい……では、ありませんね」
「え……?」
「いつもより、中が熱い」
「………あぁっ」
入り口のところまで引いて、まだ奥へ。一度目はゆっくり。二度目は、性急に。三度目は……、もうわからない。彼の動きに思考も引きずられ、とろとろととける。
熱と、質感。
根本を掴まれたまま、奥を探られる。
したたる。走る。
吐息に耳朶を濡らされる。
すべて───総てそれは、要が待ち望んでいたもの。
羞恥心は陶酔の名のもとに息をひそめる。
「あっあ…やっ、そこ、ああ、ン……、はァん!」
「ここ……?」
「そう、そこ、いい……っ、ふ、ぅあ……あッ」
奥を強く突かれて、要は目を見開く。その瞬間、涙がこぼれた。でも要は気がつかない。繋がったところがどうしようもなく熱くて、突きあげてくる腰もいつもよりずっと強い気がする。いや、きっとそうだ。
「も……っ、と、…ア、もっと、先生、もっと……!」
「……要」
「もっと、して……っ」
壊れてもいいから……、と、その訴えは果たして言葉に成っていただろうか。叫ぶ前に唇を塞がれた気もする。だけど、幹彦が覆い被さってきたのは確かだ。その証拠に、要は手首の戒めを解かれた。シュルリという衣擦れの音が、その合図。
それでもまだ畳のうえに置かれたまま動かない要の手に、幹彦の手が絡められる。
腰と腰が、より密着する。
「……あっ!」
菊花も果実も同時に揺らされ、要はきつく目を閉じる。睫毛の先で弾いた涙は、幹彦がすくう。舌が頬をちろりと撫ぜて、それから口接け。息苦しさで霞む意識が、より純粋に悦びを求め請う。 好き、と。また言った気がする。愛しているとも。
言わなければ、幹彦には伝わらない。
幹彦は人としての感覚や情に欠けた、「狂った人間」だから。
だけど、言わなくてもとっくに通じ合っていることも要は知っている。
自分は幹彦の五感で、幹彦は自分の半身。
互いのことは何でもわかる。
わかる、はずなのだ。
パタパタ……と、廊下を歩く足音を聞いた。
あれは、誰なのだろう。
誰かを探しているのだろうか?
けれどこの邸は、自分たちの他に誰もいないはずなのに。
そんなことを頭の片隅でチラと思ったが、すぐに跡形なく消えてしまう。
ア、と高くそぞろに喘いだ瞬間、もう何も考えられない。 気がつけば要は鏡台に腕をつき、その力だけで自分を支えていた。足はもはや、あるようで無きもの。敢えて言えば───背後から挿し込まれた幹彦と腰に添えられた手が、要を援けている。だけど彼に揺さぶられるから、体から力は抜ける。火照りと痺れは熱と速さを増すばかり。
顔をあげれば、布を取り払われた鏡に涙で濡れた自分が映っている。
そして、幹彦と目が合う。
強い情欲を隠しもしないその双眸が愛しくて、要は鏡の中の彼と見つめ合う。
「あー……っ、あっ、せんせ…ぇ、あ、はぁ、あああァ……ッ!」
三度目の絶頂が近い。
恍惚を伴うその予感に、要は無意識のうちに唇を歪めた。 「……その顔ですよ」
私を誘い、惑わしてやまないのは。 少しかすれて、上擦ったような声。
その呟きを、要は耳ではなく体の内で聴いた気がした。
それぐらいに、もう自分たちは溶け合っている。
この心と身体を分かつものなど、ありはしない。 ふたり同時に、息を吐く。
同時に、吐き出した。
白い光明の中へ、ふたりして身を投じる。 その瞬間にいつも、永遠を夢見る。
夢を。
所詮一時の幻だろうと理性ではわかっていても、心が甘い夢を恋う。
甘い夢を。 そんな不確かなものを想わなくても、手を伸ばせばいつだって彼は傍にいる。 傍にいるのに、それでも、なお。 +++++ ふうっと吹きつけるようにすべり込んできた夜風に、要は目を覚ます。
夏だというのに、その感触はやけに冷たかった。眠気を少し萎えさせるほど、ひんやりとしていた。
「………」
要は身を起こし、無造作に放り出してしまっていた紅い振袖を拾って、傍らで眠る幹彦の肩に掛ける。そうして自分はスッと立ち上がり、襦袢の合わせを正すと、部屋の外へ出た。
静かな夜だ。
揺れる雨戸やざわめく庭木の他には、何も聞こえない。
長い廊下を歩いて、やがて要は縁側に出た。
そうして何気なしに庭先を見やって───息を呑んだ。
鬱蒼とした常緑の先、庭の奥。
佇む木の枝先から、人がぶら下がっていた。
空へ高く昇った月に照らされ、白い足袋がどこまでも白く映える。
纏う着物は、月夜の色に滲んで溶けそうな瑠璃色。
まさか───と要は瞠目した。
だが、唇をついて出たのは、この言葉。
「『おかあさま……?』」
要は自らのその声に驚く。ガラス戸に思わず手をつく。そして一瞬の躊躇のあとそれを引き開き、裸足のまま庭へ下りた。
枝から力なくぶら下がっているのは、女性。まだ若いといえる年頃の。
その姿、面差しに、要は覚えがあった。
ここにいるこのひとは、あの部屋の写真立ての中にいたひと。
だけど、そのひとが今、ここにこうして「いる」はずがない。だけど、いるのだ。目の前に。
「『おかあさま?』」
また、勝手に声が出る。
やがて、母屋のほうからパタパタと足音が聞こえた。要は思わず振り返る。
だけど、誰もいない。
そう思った瞬間、視界の端を人影がよぎった。背の低い───まだ幼い人影。
要は正面を向く。
すると、瑠璃色の着物を纏う女性は地面へ降り立っていた。
今の季節には咲くはずのない、薔薇の茂みの中に佇んでいた。
一重の、切れ長の美しい双眸。長い睫毛に、すんなりとした鼻梁、薄い唇。細い顎。
美しい、綺麗な女性だ。
だが、青白い肌をした彼女はこう告げた。 「私は、浅はかな嫉妬のゆえに命を絶ったのです」と。 美しい女性は、語る。
私がこの家へ「貢がされた」とき、私はまだ少女と呼べる年頃でした。
あのひとは金で私を、いえ、私の家の名を買いました。
私はあのひとを嫌悪しました。
でも、本当は、私をただの女として愛してほしいと、そう願っていました。
けれど私は男の人へ愛を請う術を知りませんでした。
私は華族の娘として気高く生きる心得しか教わっていなかったのです。
それでもやがて、私は、男の子を産みました。
その子は私と面差しがそっくりでした。
あのひとは、ますます私を見ようとしなくなりました。
私は私なりに懸命に考えました。
そして結論づけたのです。
あのひとは、きっと、少女ではなくなった私を厭っているのです。
ある日、私は大好きだった振袖を箪笥から取り出して眺めていました。
すると、私の面差しを宿した幼子が私へ教えてくれました。
「西洋では、薔薇の下に死体が埋まっている」
あどけない声でソウ教えてくれました。
次の日、あのひとは、この子へ手を伸ばしました。
私は思わず制止の声をあげました。
初めて、あのひとに面と向かって逆らいました。
私は確信しました。
少女の私はもはや、薔薇の紋様の振袖とともに眠り逝くものなのです。
あのひとにとって、今の私など必要ないのです。
ああ、だけど。
だけど。
少女の私は、あのひとのところへ貢がされた道具でした。
あのひとはお金で私の家の名を買いました。
私の心はいつも、宙ぶらりなところに在りました。
私は少女でした。
愛することも、愛されることも知らない少女でした。
それなのに、浅ましいでしょう?
私は、私が産んだあの子へ嫉妬しました。
だけど、だけど。
薔薇に埋もれるのではなく、
薔薇の上でこそ眠り逝くことが、
私にとってせめてもの誇りなのだと、思し召しください。
「おかあさま……?」 幼い声が不意に聞こえた。
要はビクリと肩を揺らし、そして傍らを見る。
すると、いた。
かつての夜、ここで母親の死を見つめた少年が。
少年は前を見ている。
この夜の静寂をすべて集めたような無垢な瞳で、母親たる女性をジッと見つめていた。
要は、彼を抱きしめようとした。
だが触れる前に消えてしまう。
ザア………と、風が吹き抜けた。冷たい風。幻の薔薇がその花びらを一斉に散らし、夏の夜の底で鮮やかに舞い踊る。 ───夢だろうか。
これは、夢だ。
そう思うが、要は否と首を振る。
幻ではあっても、夢ではない。
この邸では、時を越えて彼らが生きている。いや、ここに棲んでいる。要には、わかる。……自分にしかわからないと、要は胸の中で独りごちた。 要と幹彦は、境遇が似ている。
様々な事情から情の交わりが複雑な二親を持ち、母親は自ら命を絶っていて。
異なる部分があるとすれば、それは、愛情の記憶。
要にとって、本宅───鹿之浦家の邸は広いけれど、いつも息苦しかった。いや、広いからこそ不安や不遇の溝がどこまでも続いて、離れの窓辺や庭先で優しく儚く笑っている母親の横顔が哀しかった。
寂しさは、霧のように曖昧で果て知れずの哀しさ。
それでも要には母を愛し、母から愛されていた記憶があった。
だけど、幹彦は違う。
こちらからせがまなければ、彼は自らの過去を語らなかった。語らせても、彼の言葉はいつもするすると流れてあっさりと消えた。それはまるで、暖かさも冷たさも感じない無温の霧のように。 だけど、幹彦はこう言っていた。
父は、母のことをこよなく愛していた、と。
母を愛し、それでもその心が通じぬから、母の面差しを宿した自分へ触れるようになった……と。 どうして、人の気持ちは簡単にもすれ違ってしまうのだろう。
いったいどこで歯車が狂ってしまったのだろう。 気がつけば、要は泣いていた。後から後から涙が溢れてきた。
頬の上を流れ落ちる涙を感じながら、そうして思う。
自分と出会うまでは愛も欲も知らなかったという幹彦の、彼のくれる言葉の重さと強さを。 『君を恋えば恋うほど、私は正常な人間になっていく気がする』
『愛してますよ、要』 「要君?」
不意に名を呼ぶ声とともに、ふわりと肩に掛かるもの。
驚いた要が手をやれば、それは真紅の着物だった。
「……月村先生」
「どうしたのですか、このような夜更けに庭へ出て」
「先生、いま………」
口を開きかけて、要はやめる。言葉ではとても言い表せない。伝えるとしても、いったい何を告げるべきなのか。
「要君?」
着物を羽織った肩を後ろから抱き、耳元から顔を覗き込むようにして幹彦が訊いてくる。その手も声も眼差しもすべてが切なくて、要はただ彼へ唇を重ねた。そして、夜が明けたのならばすぐに彼をこの家から連れ出そうと、心に誓った。過去の幻影から彼を守る為に。時の止まったこの箱庭で未来を蝕まれてしまわないように。 恋の為に、いや、幹彦の為に、要は狂った。そうすることを選んだ。
それでも、人を愛する術を知っている。
愛する人が傍にいる。
この幸福だけは、一夜の夢にしてしまわない。要は、そう決めた。 どんなに馬鹿げていても、夜毎、永遠を夢見る。 愛している。 この命が尽きて骨さえ朽ちても、その想いは変わらない。 例えばそれは、季節がめぐりきて咲く紅い花のように、欠けては満ちる夜空の月のように、ずっと。 fin. |