それは、晩秋の日の夕暮れ。
咄嗟に机の上へと手をついた。
だけど指先にはまるで感覚がない。
ふと気がついて目に映ったのは、机の長い脚。
体は冷たい床の上。
血を吐く。
眩暈がやまない。
この命の終わりはもうすぐそこにあるのだと、知る。
だから、幹彦は真っ先に考えた。
要の元へ行かなければ、と。
身の回りの雑事をやらせている男はいま、出掛けている。
マリワナ煙草を買いに行かせると彼は必ず、朝帰りをする。街で遊んでくるからだ。
けれどそれは本人が望んだのではなく、そうするように幹彦が命じたことだ。
彼は自分が幹彦に何ひとつ逆らえないとわかっていながら、何かと口うるさい。ともすれば幹彦を無理やりに遮って、自らが要の世話をやこうとする。
その彼がいまこの家にいないことは、本当に好都合だ。
これならば、幹彦の邪魔をする者は誰もいない。
幹彦が要と出会ったのは、去年の春。
幹彦が要の心を狂わせたのは、今年の夏。
幹彦は、要を変えようとした。
だけどそのための最終試験に、要の心は耐えられなかった。
だから幹彦は要を連れて、姿を消した。
要を慕う者たち────あの学校の生徒たちがこの家に踏み込んできたことが、一度だけあった。子爵家の長男があらゆる手を尽くして意地で探し当てたのだ。
だが彼らは皆、要を見て絶句した。
一番背が高く、一番無口な生徒が、幹彦の胸ぐらを掴んで撲ろうとした。けれど拳は途中で止まる。要が二人の間に割って入り、幹彦をかばうようにして幹彦の首へ抱きつき、そして撲ろうとした彼を睨んだ。
彼らはもう何も言わなかった。
眩暈は消えない。
だけどこのままジッとしていたのでは、機会を逃す。
幹彦は机の脚に手をかけ、ゆっくりと半身を起こした。白いシャツにべったりと血がついてしまったが、やはり着替えるべきだろうか。そんなことを一度だけ考えたが、結局、口許を拭うだけにする。
マリワナ煙草を吸おうとしたが、叶わない。マッチを握ることは出来たが、思うように手が動かない。
さて、ではどうしようか。
どうやって要を一緒に連れて逝こう。
手が動かないのでは、ナイフを握ることは出来ない。
ならばやはり薬だろうか。
二人でぐっすりと眠り、そのまま、黄泉路へと旅立つか。
……どうやら、選択肢はそれしか残っていないようだ。
眩暈が落ち着いた。
少しだけ指先に感覚が戻る。
幹彦はやっと立ち上がり、ガラス戸の棚の前に立つ。
そうして薬瓶のひとつを手にしたとき、書斎の扉が開く。
「せんせい……?」
「要君」
名前を呼んで振り返ると、要は嬉しそうに笑った。
「先生」
肩から絹のショールが落ちるのも構わず、着物姿の要は腕を前へ突き出すように伸ばして歩き、やがて幹彦に抱きつく。緋色の散るシャツの肩口へ、猫のように額を擦り寄せた。
「先生、好き。大好き」
「ええ、要君」
「先生、僕のこと、好き……?」
「愛していますよ。この世の何よりも」
幹彦は要の髪を撫でて梳きながら答える。
そう。
要のことを愛している。心の底から。
この命が尽きるときは必ず彼を連れて行くと、もうずっと前から決めていた。
要と出会ったからこそ、この命は生きているという実感を得た。
だから、死ぬときは連れて行くのだ。
変わることの出来なかった要を────人を支配することを恐れた要を、そのために自らの心を壊した要を置いていくことなどできない。
愛している。
幼いようなその眼差しに見つめられ、甘くねだられたので、幹彦は要へ口接ける。
浅く、深く、短く、長く。
湿った吐息が互いの鼻先をなめる。
幹彦の両手は要の腰を抱いている。
だけど目線は一瞬、机の上に置いた水差しとグラス、そして薬瓶へと向いた。
「せんせい」
咎めるような、拗ねた声。
幹彦は小さく笑ってそれへ応える。
すると要は目を閉じ、幹彦の首へ回していた腕を解いて、その手をシャツの上にそろそろと這わす。指先は、まだ渇ききらない血痕に触れたところで止まった。
そうして。
「月村先生」
通りの良い、整然とした声。
幹彦にとっては、いっそ懐かしいほどの響き。
驚いて目を見張る。
すると、要は真っ直ぐに幹彦を見上げていた。
長い睫毛の奥で輝く目には、一片の曇りもない。
「要君」
「月村先生はやはり、お体を悪くなさっていたんですね。……こんな血を吐いてしまわれるほどに」
「………」
幹彦は何も言わない。
それよりも。
「先生。……月村先生?」
「はい。要君」
狂ってしまう前と何ら変わらない彼の声を、言葉を、少しでも多く聞きたい。だから幹彦は何も言わない。けれど胸の奥が不思議に騒ぐので、要を抱きしめた。
今宵これ限りにと抱きしめてしまいたいのに、やはり、腕にはうまく力が入らない。要は腕の中からあっさりと抜け出してしまう。
────正気を取り戻したのであれば、拒まれるのだろうか。
そう思ったが、要は幹彦の腕をグイと引く。そして机の前に置いた椅子に座らせた。
要の目がチラと机の上のものへ向く。
今の彼であれば、薬瓶のラベルに記された薬品名を見ただけで、それがいったいどんなものであるのか、何を意味するものなのかを察しただろう。
さて、どうしたものか。
どうやってこの要を一緒に連れて逝こう?
幹彦はまるで他人事のように考える。
だけど今はこちらのほうが気になって仕方ない。
「要君。私が君にしたことを憶えていますか?」
「はい。すべて────何もかも、憶えています。先生の前で誰それを犯せと命じられたことも、それに僕が従ったことも、………あの夜、先生が素行のよくない生徒に僕を襲わせたことも」
「素晴らしい」
思わず漏れたのは、感嘆の一言。
皮肉ではなく、幹彦は本当に心からそう思った。
だから問うた。
「では、要君。君にあのような仕打ちをした私を恨みますか」
────君は結局、私と一緒に逝ってはくれないのでしょうか。
結局、私は最後の最後で君と離れなくてはいけないのか────。
自らの内で響く言葉をも耳にしながら、幹彦は目を閉じる。
すると、その瞼にそっと口接けられた。
「恨んでますよ。憎んでます」
だけど……と言いながら、要は幹彦の首へ手を回す。────いつもしているように、そうした。
「そんな気持ちよりもずっと強く、先生を愛してます」
耳元で囁かれたその声に、幹彦は瞼を開ける。
「先生は、狂った僕まで愛してくれた」
「……その間のことまでも、君は憶えているのですか」
「ええ。だからこそ、僕は正気に戻りたかった。………先生と添い遂げるために」
熱っぽく、だけど鋭い声で要は告げる。
そして幹彦を正面に見据えたまま、右腕を大きく振った。
机の上の薬瓶が弾き飛ばされ、床に落ちて甲高い音を響かせる。
二人の足元へぱらぱらと小さな錠剤が転がってくる。だけど二人がそれに目をやることはない。瞳はいま、互いを映すだけのものとして存在する。
要の手が幹彦の頬を捕らえる。
唇が重なる。
幹彦はむさぼられる。いつもとはまるで逆だ。
あぁ、と嘆息する。
本当に、言葉のとおりだ。
要は自分を恨んでいる。憎んでいる。そして────。
「……いまさら薬なんて無粋ですよ、先生」
淫らに濡れた唇を幹彦の耳朶に寄せて、要は小さく笑う。彼の手は幹彦の背を這い、やがては隠しに入れているナイフを探り当てた。
蔓草の絡んだ三日月が柄に彫られた折り畳み式のナイフは、去年の誕生日に要から贈られたもの。
「先生。……先生は、『天守物語』という戯曲を御存じですか。泉鏡花の」
「そのようなものがあるということは識っていますが、内容は知りません」
「その戯曲には、心中を試みようとする場面があるんですよ。……一方が相手の舌を噛み、その瞬間にもう一方が相手の胸を一突きにして果
ててしまおうとする場面が」
「………」
「だから、僕たちもそうしませんか?」
要は幹彦の目を真っ直ぐに見て、艶やかに笑う。
もしかしたら、彼はまだ狂ったままなのかもしれない。
そんな思いが一瞬だけ、幹彦の脳裏をよぎった。
けれども胸は熱くなり、果てしなく満たされていく心地だ。
要の手が幹彦のシャツを脱がしていく。
肌の上にまで染みた血を舌でざらりと拭う。
幹彦は僅かに仰向き、薄く唇を開いたまま瞼を伏せた。
「僕がこのナイフで、先生の胸をついて差し上げます。だから、先生は……」
「ええ。喜んで」
二人は微笑みを交わしあう。
そして、今は抱き合う。
最後の肌の感触を確かめあう。
窓の外は、もう暗闇。
幸福という名の永遠の夜が、もうすぐ始まる。
fin.
|